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園長の小部屋

園長の小部屋

日曜日の園庭でBBQ!ファミリー・デーをしてみました

2018-9-28

所長通信9

 

夏の暑さの余韻残る秋空の下、職員の親睦会をしました。

といっても、今回は初めての試みとして、職員さんだけでなくご主人やお子さんなどのご家族を歓迎して、行いました。

 

世間では「ファミリー・デー」と称して、お父さんやお母さんの働くところを家族に見てもらう取り組みをしている企業を目にします。

私は日頃から、近年の働き方には、家族の理解が大切だと感じています。夫は妻が、ご両親は我が子が、どんな職場で働いているのか気にならないはずはありませんし、残業で遅くなったときや疲れて帰ってきたときなどどんな仕事をしているのか心配するはずです。

思えば採用試験のたびに、私は面接の最後に「この度の応募はご家族も知っていますか、応援してくれていますか」という質問を必ずしています。

 

またもう一つ背景には、職員さんの人数が増えてきたために起こるこんなこと。そう、一日を通して顔を合わさない人も…名簿に名前はあるが顔と一致しない、4月からいるのにたまたま勤務が重なった日、お互いに、誰…?ということも。。

そして親睦会といえば、土曜日の夜に居酒屋で‥が定番でしたので、そうすると小さなお子さんがいる家庭では外出が難しい人もおり、いつも決まって参加できない職員さんがいた…。

 

そこで日曜日のお昼に保育所の園庭を使うことにしたのです。

『 職員 family 親ぼくミニ運動会 & バーベキュー PARTY !! 』タイトルは立派です。

 

最初は緊張気味に「初めまして…」、体を動かして少し汗をかき、必ず起こるハプニングに笑い、互いに打ち解けたところで、お腹を満たす…おいしいものを前にさらに笑顔が集まる。。いい流れではなかったでしょうか。ちなみに娘と参加した私はパパモード全開、お父さん方、火起こしお疲れ様でした!

 

(写真はパン食い競争と食事風景)

 

 

 

 

 

 

 

 

仕事を楽しむ工夫は身近に

2018-4-6

所長通信8

 

わくわく感を持って仕事をする、毎日心がけていることです。

今日はどんな楽しいことが起こるのだろう‥と想像すると、目に入るものは何でも楽しく見えてきます。想像することは「発想で遊ぶこと」とある本で読みました。「遊ぶ」というとふざけているようにも聞こえるが、決して、そうではなく、プロフェッショナルな遊びなのだ‥と。

 

自分の感性を豊かにする遊びが、結果として仕事につながる‥ということでなはいでしょうか。

 

ちなみに私の「遊び」は、毎日の給食メニューを言い当てること。自分へのクイズです。

配膳されて、さあ、いただきます!のとき、主菜、副菜、デザートなどじっくり観察します。あまり時間をかけても給食が冷めてしまいますし、考えすぎると楽しくなくなります。頭の体操なのですから。

 

今日の給食(写真)は何でしょうか??

どんぶりものなのか、炒めものなのか、煮物なのか‥。

肉料理?魚料理?

料理名があるものか、そうではなく食材名と調理法を組み合わせたものか‥。

 

この遊びは、考えて、何かしらの答えを出すことに意味があると思っています。五感をフルに使うことが目的ですからね。

 

それからこの遊びには、もうひとつの視点があると思います。それは「同じものを見ても、何かを感じる人と、何も感じない人がいる」ということ。

例えばこの、給食メニュー当てを、1カ月続けた人と、その間何も考えず出されたものをただ口に運んでお腹を満たすだけの人、子どもたちのままごと遊びの輪の中に入ったとき、どちらがより遊びを広げることができるでしょうか。

 

このように、仕事を楽しむとは、仕事をしていないときにこそヒントがあると思っています。何かのCMでありましたが、会議でアイデアが出ないのと同じことですね‥。

 

私は、今日の給食、主菜は「中華丼」もしくは「豚肉と白菜のあんかけ」、副菜は「かえりのごまがらめ」、デザートは「オレンジ」と予測しました。

正解は「八宝菜」「かえりの佃煮」「オレンジ」です。

 

 

 

 

 

 

エピペンのある生活

2018-2-9

所長通信7

 

食物アレルギーがある子のうち、医師からエピペンを処方される子がいる。エピペンのある生活とはどんなものだろうか。

 

アレルギー反応の程度にもよるが、そのような家庭では口にするものすべてに注意が必要で、スーパーで買い物をするにも商品の成分表示ラベルをひとつひとつ確認する‥本人は食べたいものが食べられず、家族も協力する。いろんなルールのある大変な生活だと想像する。

 

毎朝、登所後いつもの笑顔でエピペンを所定の場所に置きに来る子。帽子、タオル、お帳面と同じように持ち物の一つになっているこのエピペンが、自分の命を握っていることを、本当にはどの程度わかっているのだろうか。そうしてその子にとっての一日が始まる。

我が子を元気に送り出した保護者にとっても、迎えまでのしばしの別れ、今日はどんな楽しいことが我が子に起こるのだろう‥と仕事の合間にふと考える一日の始まり。

 

2012年のクリスマス前、いつものように始まった一日が、我が子との永遠の別れになってしまったあの出来事は忘れられない。

 

「調布市立学校児童死亡事故検証結果報告書」

 

70ページにもおよぶ資料の冒頭は、こんな言葉でつづられている。

「生後間もない頃から家族みんなで食物アレルギーと戦ってきたことを考えると、言葉では言い表せない感情がこみ上げてくる。成人の晴れ姿を見ることなく我が子が逝ってしまった父母の悲しみ、いつも笑顔で会話していた姉たちの悲しみは計り知れない。家族そろっての楽しい団らんは戻ってこない。朝、いつものように笑顔で元気に学校に行ったのに、あの笑顔は戻ってこない。」

 

そのとき多くの大人たちが周囲にいたにもかかわらず、たった14分の間に、人が命を落としているという事実。この事故から、私たちは学ばなくてはなりません。

 

当時の切迫した現場が垣間見える表現が胸を打つ。

「わずかな時間の中で多くの者が夢中になって駆けずり回りながら、無我夢中でできる限りをつくしている。ある者は2階から3階へ、ある者は2階から1階へ、さらには1階から3階へ、人を呼びに行ったりAEDを取りに行くなどの対応に追われた。しかし、一人の女の子の命を守れなかった。これは事実である。」

 

誰かを責めるのではなく、その場に居合わせた一人一人が、自分の行動をふり返る。もっとできることはなかったのだろうかと。

 

いざというとき、自分が何とかするのだという覚悟。思えば決意することはあっても、覚悟をすることはあまりなかったかもしれない。毎朝おはようの言葉を交わすとき、今日も一日、どんなことがあってもこの子の笑顔を守ると、覚悟する。

 

これは、私たち周囲の大人がエピペンのある生活を考えるとき、わが身において目を通してほしい記録である。亡くなった女の子の死を、決して無駄にしてはいけないと思う。

 

リンク:「富士見台小学校児童死亡事故の検証結果報告書の提出/東京都調布市」

 

 

 

職員の笑顔を支える仕組みづくり

2018-1-5

所長通信6

 

数年前に、社会福祉法人役員向けの研修で講師から聞いた言葉があります。

「できるようになってから任せる、のではなく、任せるからできるようになるんです」

 

それまで漠然と、なにか違う気がする‥と思っていた違和感を、言葉でちょうどぴったり言い表されたようでした。それは毎年のこと。次年度の職員配置を考えるとき、いろいろな方面から意見や要望が集まります。5歳児は来年小学校に行くのだからある程度経験のある人がいい‥、新人が一人担任クラスを受け持つのは頼りない‥、複数担任クラスで経験を積んでから一人担任クラスを受け持つのがいい‥、この人とこの人は相性が悪い‥、など。

 

5歳児は小学校に行くための保育をするのではありません、5歳児のための保育をするのです。新人であっても一人前です、どんな職業にも初めてはあります、10年経ってもできないこともあります。複数担任には複数担任にしかなく一人担任には一人担任にしかない動きの視点やタイミングがあります、複数担任の業務に一人担任のための互換性を求めているわけではありません。仲の良しあしで担任ペアを決めるようなことはしません、相性が悪いというのは相手を受け入れる心が足りないから、握りこぶしでは握手はできませんね。

 

本来は、誰が、どの年齢を受け持ってもいいものです。誰と誰がペアを組んでもいいものです。私たちは、職種やクラスの枠にとらわれず、職員全員ですべての子どもを受け持つ、という気持ちでいるのですから。

 

ただし、この「任せるからできるようになる」ことは決して、放任することではありません。できるようになる前に任せるからには、それをサポートする体制は必要です。そしてサポート体制を整えた上で、反面、こうも思います。

「任せるからできるようになる、を実現するためのサポートが上手に機能しなかったときは、躊躇なく、考え自体を捨てる」

 

それはいつも何事に対しても、これは職員の笑顔を支えることにつながっているか‥と問うからです。確かに、任せるからできるようになる、という体質を実現できれば理想的ですが、そのために職員から笑顔が消えてしまっては本末転倒なのです。そんなときは、迷いなくこの考え方を変えます。

 

職員の笑顔を支える仕組みをつくる。変わらない信念のために、自分の考えや手段は、いつでも変えます。

 

これからも、職員の笑顔を支える仕組みの一つとして、「できるようになってから任せる、のではなく、任せるからできるようになるのだ」という考えを持ち続けます。

 

 

 

意識改革とは何か

2017-12-18

所長通信5

 

変わらなくてはいけない環境において、足かせとなるのは、積み重ねた過去の実績や知恵。施設長なら、今までのスタイルや習慣を変えたくないという抵抗感が、変化をこばむ。

 

例えるなら下向きのコップ。下を向いたコップには、何も入らない。

 

変わろうとするならば、変化をこばむことなく、新しい価値観を受け入れる心が必要。意識改革とは、ずばり、受け入れる心をはぐくむこと。

 

これはもちろん、他人のコントロールを甘んじて受け入れるのではなく、心に柔軟性を持つということ。

 

コップが下を向いたままでは、器の大きな人にはなれない。自分へのいましめに、毎日目にするところにこれを置く。

そして、いつも活き活きと、いつまでも若々しい自分を想像する。

 

 

 

 

経験していないことを補う勇気

2017-12-11

所長通信4

 

プロとして子どもと接し保護者と向き合うとき、それは新人・未経験者といえどももう一人前の保育者といえます。経験は今から、時間をかけて積んでいくことになるでしょう。

 

ただ、経験がすべてをカバーできるとは思いません。

助けを求める保護者の心に気持ちを傾けるとき、その保護者にどんな困難な出来事があったとしても、それと全くおなじ経験をしていることは、まずありません。

 

では経験をしていないからという理由で、その人の気持ちを理解することは不可能でしょうか。そんなことはないと思います。

 

結婚していないから妻側の気持ちはわからない‥、子どもがいないから母親の気持ちはわからない‥、

「経験者にしかわからない」と言い切ってしまったら、何かの支えになりたいと思う人を拒絶することになります。これはとてもさみしいことです。

 

私たちが目指す福祉は「十分でないものを十分な形で返す」こと。ここでは十分でない知識と経験値をどのようにすれば十分な形で返すことができるでしょうか。

 

結婚していない私は、どうすれば妻側の気持ちを知ることができるのでしょう。

子どものいない私は、どうすれば母親の気持ちを知ることができるのでしょう。

それを考える時間が、一人前の保育者として社会に出てから、ほんとうに積むべき経験だと思います。それはもしかすると、経験した人より的確に、相手が望む答えを出せるかもしれません。

 

 

トイレ掃除を考える

2017-11-27

所長通信3

 

あなたはなぜトイレ掃除をするのか?

もちろん、保育所内各所の清掃の分担表で、その担当に決められたからに他なりません。

 

では何を考えながら掃除をしているのか?

分担表には掃除の手順も示されています。次の手順を考えながらしているはずです。

 

担当だからしているだけ‥。決められた手順をこなしているだけ‥。

これでは、確かにトイレは「清潔」にはなるけれど、そこに「清潔感」は生まれるでしょうか?清潔であること以上に、清潔感を感じることは大事なことだと思います。ピカピカに磨かれた手洗い台に、何もないよりは、小さくても造花がひとつあるでけで「きれい」が強調されます。

 

何のためにトイレ掃除をするのかを、想像力を働かせて考えてみましょう。

「使う人のために」。これは、まずは、大切な心掛けです。

 

では「どんな人が?」「どのような使い方をするか?」ということまで考えられているでしょうか。通常想像できることの、さらに一歩先まで想像してほしいのです。

 

トイレには一般的な目的以外に訪れる人がいます。

メイクを直すために来るかもしれない。そうなると通常より顔を鏡に近づけるだろう、そうして実際に顔を近づけてみて、初めて見える汚れに気づく‥。その他には緊張をほぐす笑顔をつくるために‥、頭の中の考え事を整理するために‥。

それはどんな人か。女性なのか男性なのか、男性ならハンカチを持っていないかもしれない。そうするとジェットタオルを使うだろう、そうして実際にジェットタオルの前に立ってみて初めて、そこから見える棚が散らかっていることに気づく‥。その他には背が高い人なのかも‥、年齢層はどうか‥。

 

こんなふうに想像力を発揮すると「感性」が磨かれます。すると、トイレ掃除は単なる便器磨きではなくなります。「清潔なトイレ」が「清潔感のあるトイレ」に変わる瞬間です。

それは手順には書かれていませんし、絶対に書けないことなのです。人によって答えが違うからです。人によって出す答えは違うけれど、清潔感を出すという目的は同じ。目指す域はここなのです。

 

トイレ掃除ひとつにしても、何も意識せずに作業している人と違い、そういう人は自らが成長できるチャンスを上手に見つけることができるはず。

 

 そんな、トイレ掃除をワクワク感をもってしている人に出会いたいものです。

 

 

よい保育所という定義

2017-11-15

所長通信2

 

厚生労働省のホームページに「よい保育施設の選び方 十か条」なるものが載っています。

 

その内容よりも気になることは、一番最初にはっきりと「よい」と言い切っていること。こういうものが「よい」もの、と言われてしまうと、どれか一つでも当てはまらないことがある施設は、たとえ理由あってのことでも「わるい」と言われているような気になります。

 

この表現はどこか、ひと昔前の世の中を想像させます。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」のような世界観を。すると策定当時のものが古いままに載っているのか‥?と思えば、日付けは平成12年。

 

そう考えると、現代には似つかわしくない表現のように思いますが、この丁寧さは、現代ではむしろここまで教えてあげないと分からない、知ろうとしない人が多いということの裏返しにも思えてきます。

 

自らが洞察し、想像して、「よい」かそうでないかを判断したいですね。

 

自律的な子どもを育てる私たちも、また、自律的な大人でありたいと思います。

 

 

 

第40回入園式を迎えて

2016-4-5

 所長通信1

 

この4月、川口西保育所は40回目の春を迎えます。この節目に、いま一度原点に立ち返り、社会福祉法人としての歩みを進めていきたいと考えております。

 

福祉の原点は「ないものねだり」の「ない」ところからスタートします。それは制度や法律では担いきれない部分、地域の素朴な願いや期待に耳を傾けることです。

私たちが目指す福祉(=保育)は、「十分に満たされないと、十分な効果を得られない」ではありません。「十分でないものを、十分な形で返す」ことが、私たちの役目であります。

 

そこで思うことが一つ、現代は、あらゆる情報であふれています。じっとしていても、さまざまな情報が目の前を通り過ぎていきます。今の子どもたちにとって、その中から必要なことだけを選ぶことは簡単です。

しかし子どもたちには、自らが考えをもって、自分の手でつかみ取りに行くことをしてほしいと思います。

 

私たちが子どものころから今日までの時間と、今の子どもたちが私たちくらいになるまでの時間では、時の長さは同じでも、経済の発展するスピードは格段に違うと思います。

これから先、もっと、あらゆるものであふれる世の中になるでしょう。

 

だからこそ、「何もないところから考える楽しさ」をいつまでも持ち続けてほしいと思います。「何もないからこそ面白い」のだということを、子どもたちには知ってほしいのです。

どんなときも自分の考えで、遊び、ケンカし、悩み、楽しんでほしいと願います。

 

それを私たち、川口西保育所の全職員で見守ります。そうした中で保護者の皆さまにはお子さんの成長を感じていただけるように努めてまいります。

 

どうぞよろしくお願いいたします。